婚活予備校を経営しておきながら、真っ向「婚活否定」のようで申し訳ないのだが、
婚活に限らず、恋愛結婚だろうと、誰かに紹介されての結婚だろうと同じで、その巡り合ったお相手と、
「一生仲睦まじく幸せになったとさ」
という日本昔話みたいなことは現実には無い。
勿論、仲睦まじく添い遂げた夫婦もたくさんいるが、夫婦が二人の個性や背景を持ってして、互いに我慢せず、ありのままで添い遂げたなんてことは奇跡に等しいのではないだろうか?
実際にはどちらが我慢したり、ゆずり合ったり、喧嘩したり、妥協したりしながら、要は片方もしくは両方が「変化したから」添い遂げられたという夫婦がほとんどであると思う。
「いやいや、うちの両親は最後までラブラブだった」
という人も中にはいると思うが、良い親というものは極力、子供には仲の良い所を見せるべき、小さいものから大きいものまでいさかいめいたものは見せまいと思っているものだから、それはある意味事実でもありファンタジーでもある。
他人同士が住めばどんなに仲が良くても色々違う所はあるし、「夫婦なんだから」「家族なんだから」と乗り越えてきただけで、長年仲が悪くならないように頑張ってきたというのが近しく、それが結果的に「愛」とか「絆」とかに言い換えられるものなのではないかと思う。
要は「運命の相手」「一生添い遂げられる相手」とは、結婚後の努力によって決まるのだ。
ところが、婚活中の、特に真面目で完璧主義でずっといい子だった多くの女性達はお相手を見る際に、
「一生添い遂げられる相手がどうか?」
を、それこそ志望校の過去問を何度も何度もテキストを変えて繰り返すがごとく、
もしくは、退職者続出のブラック企業面接官よろしく、
「この人で大丈夫なのか?」
を判定するため、あら捜しにやっきになってしまう。
お相手は人間なんで、見つけようと思えば「アラ」なんて簡単に見つかるものだから、結果、誰ともマッチングしないという婚活スパイラルにはまりがちだ。
これは、転職や不動産探しでも同じで、「5年ぐらいスキルアップできれば」「結婚するまで住める場所として」というスタンスでいると良い職場や家に出会えたりするが、「一生」と思った途端にそれこそ一生、良き転職先や物件に出会えなくなったりしてずっと現状にとどまる人が少なくない。
ただ、結婚はある意味、現状維持からのチャレンジなのだ。
そして、チャレンジには必ず「リスク」はつきものである。
皆、「一生この人となら添い遂げられる」と思って結婚していくのに、実際は3組に1組が別れていくのが現状。
私の所に来る、「こんな完璧なお相手はいない!と思って結婚したらDVだった、マザコンだった」という相談も枚挙にいとまがない。
かくいう私も離婚歴があり、結婚するまで自分とお相手があんなにも「結婚に向いてない」なんて思いもしなかった。結婚するまでは、何でも話せる、境遇も志も近い、完璧なお相手だと互いに称え合っていたというのに、だ。
その時の学習があって2回目はおびただしい喧嘩や話し合いや譲り合いを繰り返して現在に至り今は平穏だが、「これはもう無理!」と思ったら、私はきっと平然とバツ2となるだろう。
解りやすいから「バツ」というマイナスめいた言葉を使っているが、結婚は幸せになるためにするものであり、幸せじゃなくなったなら別れていいと私は思っている。その為にも「どんな惚れた夫に説得されようとキャリアを手放すな!」と、あちこちで吹聴してもいる。
そんなこんなを事細かく、「愛は技術~何度失敗しても女は幸せになれる」を9年前に書いた。
ここでも解りやすいから「失敗」という言葉を使っているが、正確にはお別れ?もしくは学習?そんなニュアンスで受け取ってもらえると嬉しい。でも、何度でも幸せになれるのだ。それだけは間違いない。
人間は変化するようにできている。
それは自分も、お相手も。
今完璧に見える人よりも、一緒に変化していける、一緒に苦難を乗り越えてくれる、そんなポテンシャルがある人に目を向け、自分自身もそっちの覚悟にエネルギーを使う方がずっと、良いお相手に出会える筈だと筆者は信じている。
筆者の経験上、失敗しないように失敗しないように生きても自分でコントロールできることなんてたかが知れていた。
それよりも多少リスクはあれど、貪欲に幸せになるための努力をした方が、ずっとずっと自らの生を謳歌できるのだと実感している。
そういう事もあり、私はこれからも、多くの真面目な女性達が幸せのチャレンジへと果敢に飛び込んでいけるよう、全身全霊でサポートしてゆきたいと思っている。